allan吉田の雑感少々 ←前の年 次の年→

1967年(昭和42年)

・ミニスカート、グループサウンズ、ヒッピー。フーテン、蒸発、カッコいい、ボイン。頭の体操、蒼ざめた馬を見よ、華岡青洲の妻。ブルーシャトー、世界は二人のために、帰ってきたヨッパライ。日本のいちばん長い日。ザ・ガードマン、意地悪ばあさん。米10Kg1,180円、新聞代580円、電気洗濯機31,200円。

・4月に三谷小学校5年1組、担任は柄沢先生。行事等の記憶は少しずつ出てくるが6年のところで書く。「ブルーシャトー」。もりとんかつ、、よく歌いました。「世界は二人のために」、ギター教則本に載っていて弾きました。そう、この年に兄が西荻窪の南口の新星堂で父親から3,800円のギターを買ってもらうのに付き合ったのだ。それからはピッカピカのギターを兄から借りて時々さわせてもらっていた。この頃、たまたま母親が楽譜の会社(ホッタガクフ、新宿区戸山、とある。記憶では"中野"だと思っていたのだが。54年経ってHPに出会うとは!!)に勤めていたこともあり、そこの制作だったのかはわからないが、太い指の絵がついたタブ譜のカードのようなもので「バラが咲いた」とか「世界は二人のために」とか「ある日突然」とかが載っているものがなぜか我が家にあったので、それらを見ながら、私は"C"とか"F"とかのコードを覚えていったのでありました。兄がなぜクラシックギターを買ってもらったのかは不明、誕生日か何かのプレゼントだったのだろうか。
・電気屋もしていた父だったので我が家には大型のキャビネットのスピーカとかSPレコードがあった。蓄音機の記憶は無いが、たしか日立の観音扉式のステレオセット(スピーカはパイオニア製)があり、レコードも結構あったと思う。黒柳徹子の解説が入っている25cm盤のセットもので、チャイコフスキーの悲愴やムソルグスキーのはげ山の一夜なんかを聴いた記憶あり。また歌謡曲や西部劇のソノシートもあったと思う。後に父はサンタナとかも聴くようになるが、洋楽では映画音楽などもあったような気がする。直接、話を聞くことはなかったが後で知るには、若い頃、近衛秀麿指揮で園田高弘のピアノとかのコンサートで日比谷公会堂に行ったりしていたそうだから、土曜日も普通に仕事の時代なのに結構な音楽ファンだったのだろうと思う。父はハーモニカも吹けたと思う。それに合わせて我が家にいた"ベル"という名前の犬が良く歌っていた。茶色の雑種だったろうか。まるでビンクフロイドのシーマスみたいに歌っていた(はず)。あー、もっと話をきいておくんだったな、と今更思う。(2021.9.8)



allan吉田の雑感少々 ←前の年 次の年→